mの掃き溜め

とくにテーマを定めず誰得なことをつらつら書いていくまでです。

大好きなアイドルが卒業を発表した日

2020年7月10日、大好きなアイドルが卒業を発表した。彼女は私が人生で初めて好きになったアイドルである。そんな彼女が、卒業を決めた。

私は彼女に出会うまで、アイドルに興味がなかった。彼女、そして彼女の所属するグループを応援し始めたのも約2年半前のことで、歴としては浅い。

それまでの私は、アイドルに対し偏見さえ抱いていた。いわゆる熱狂的な「アイドルオタク」が付きものの、一種の宗教じみたもの、なんだか理解できないものとして敬遠していた。

そんな私のひん曲がったアイドル観を、彼女が変えてくれた。

とはいえ、彼女は正統派アイドルではない(様々なタイプのアイドルが存在する今日ではこの言い方さえも物議を醸すかもしれないが)。彼女の所属グループ自体は、フランスのリセエンヌ(女子高校生)をコンセプトにし、上品で清楚なアイドル像を売りにしている。彼女自身、中高一貫の女子校出身というお嬢様であり、そういう側面ももちろん持ち合わせてはいる。しかし他のメンバーのように、常にキラッキラの笑顔でファンを魅了したり、守ってあげたくなるような儚さを持っていたりするタイプではなかった。

 

ネガティブで、時に卑屈なほど自信がなく、器用貧乏。アイドルでありながら同時にアイドルオタクでもあり。シングルの選抜メンバーから外れ、思いがけず生じたオフ期間をパズドラに費やしたり。麻雀にハマったり。タロット占いを勉強したり。レギュラーラジオにて芸人の下ネタ話に躊躇なく乗っかったり。アイドルらしからぬアイドルだった。

 一方で、

真面目で努力家で、パフォーマンスはピカイチ。その妖艶で華麗なダンスは他メン推しのファンからも認められるほどで。彼女を見て、アイドルの踊る姿を初めて「美しい」と思った。

中心メンバーとして起用されていた結成当初から考えれば、運営に見放されたとも思える時期が数年間続いたけれど、決して腐ることはなく。選抜メンバーではないのに、何カ所もポジションをマスターして、誰の代理でも務められるくらい毎シングル真剣に取り組んで。

どのメンバーとも分け隔てなく接し、同期には信頼され後輩には慕われ。情に厚く、誰かが卒業していくたびいっつもボロボロ泣いて。

ファンに誠実で、どんなに忙しくてもブログもモバメも更新を絶やさなくて。取り繕うことなく、良いところばかりでない人間くさいところも全部見せてくれて。

 

アイドルとは、ステージ上のパフォーマンスだけではない。その生き方で人々を惹きつけるのだと。

気づけば、一人の人間としての彼女に惹かれていた。こんなにも誰かに対して心から惚れこんだのは、彼女が初めてだった。誰かの生き様に夢中になったのは、彼女が初めてだった。

 

徹底した在宅オタゆえ、彼女をこの目で直接見たことはないのだけれど。

きっとそれでいい。生で見てしまったら、私の心の中で何かが切れてしまう気がするから。「アイドル=idolは偶像なんだから○%&×□…」って言う人もいるけれど、こうやって思い続けるからこそ、尊い存在のまま、私の中に居続けてくれるのだ。

 

芸能界に居続けてくれるのか、一般人に戻るのか分からないけれど、どうか幸せになって欲しい。他人の幸せを切に願うのも、彼女が初めてである。

 

中田花奈さん、9年間お疲れ様でした。本当にありがとう。

前回ブログに対する懺悔

実は前回あの鬱々しいブログを世に放ってから、それが正しかったのかちょっと悩みました。まあ鍵付きかつFF30程度の弱小Twitter垢でしか更新報告していないし、投稿そのものも光の速さで数多の優良ブログに淘汰されるわけですが、それでもアクセス数は2桁あり、あれを読んでくださった方を不快にさせたのではないかと自意識過剰レベルで心配してしまったのです。ご気分を害してしまっていたらすみません。


別にね、私が尊敬してやまないカフカ大先生の絶望のお言葉を共有したのは問題ないと思うんですよ、問題はその前後。ただの自分語り、誰も聞いてねえってやつ。しかもあの内容。愚痴の垂れ流しかと思えるくらいあまりに独りよがり。あれを「ブログとして」公開しようと思った数日前の自分を小一時間問い詰めたい

あの内容に現実との齟齬はないしあれが素の私なのだけど、公の場で厭世感を前面に出しすぎたのはよろしくないですね。人様に向けて書いているからにはもっと考えないとな、と反省した次第です。

そして同時にですが、もし、もしあの投稿を良いと思ってくださった方が仮にいるのなら、私が自分の投稿を懺悔しているとはいえ貴方の感性までも否定しているわけではございませんので(何様)

これからは「読み手の存在を意識して書く」訓練としてブログを活用していこうかと思うので、お付き合いいただければこの上なく幸いです。


、、、杞憂かな。でもブログというものは、Twitterみたいに流れてくる文が自然と目に入ってくるのとは違って「わざわざ時間を割いて自発的にその人の投稿を読む」ものであるから、そういう読者が存在する限りその方々へは誠実でありたいし、あるべきだと思っています。(なーんてブログ超初心者が分かったような口利いていますが、所詮自己満です。どうか温かい目で見てやってください)


あのブログのみを世に放ったままなのはまずかろうと、1人でモヤモヤしてレポートも手につかないので(言い訳)取り急ぎ。


読んでくださりありがとうございました。

“死なないために生きるむなしさ”

私はこういう人間

私は悲観的な人間である。これまでの人生において「ただただ物事を憂う」ことに費やした時間の多いこと多いこと。特に2年前に大学に合格してからの半年間は、これまでの21年間で精神状態的にどん底だったと言える。浪人してまで入りたかった今の大学に合格したのに、だ。あのときはさまざまな要因が複雑に絡み合って悶々としていて、それを語れと言われたら1日かかるので詳細は割愛する。とりあえず、どんなに嬉しいことがあろうが、悲観に値することが起きようが、関係なく私は何かしらを憂えている。そういうタイプの人間なんだと思う。

そして同時に無気力な人間でもある。人生のとある地点でやる気というものをどこかに置いてきたみたい。趣味は何?休日は何してるの?っていう質問が苦手。だって趣味なんぞ何もないし休日も答えられるようなことしていないから。エネルギッシュな人に出会うとまぶしくて目がくらんでしまう。特に人のために精力的に活動している人を見ると。どこにそんな気力があるの?と思う。私は自分のために、自分のためだけに生きることで必死なのに。自分の中の葛藤に打ち勝つために日々精神を削っていて、他人の利になるようなことをする余裕なんて無いのに。大学に入り、いわゆる「意識高い人」(意識高い系ではなく、真に意識の高い人、ね)にたくさん出会い、尊敬する傍らで自分の無力さに嫌気がさしていた。いや、彼らを指を咥えて見ているだけの自分が、自分自身に嫌悪感を覚えることすら烏滸がましいと思っていた。

 

正直、これからの人生を考えたときに明るい展望なんて描けない。希望:絶望だったら1:9くらい。ただここでドロップアウトするわけにはいかないので、惰性で日々生きて、今はプラスアルファで就職のために勉強しているだけである。

あのカフカが?

そんなとき、人生で初めて最初から最後まで共感しっぱなしの本に出会った。フランツ・カフカ『絶望名人カフカの人生論』(頭木弘樹編訳)。人生で初めてパケ買いした本でもある。前述したような人間である私が、タイトルに惹かれないわけがない。

www.shinchosha.co.jp

フランツ・カフカと言えば、かの有名な『変身』を一番に思い浮かべる人が多いのではないだろうか。人間存在の不条理を主題とするシュルレアリスム風の作品群を残した、現代実存主義文学の先駆者である。頭木先生によれば、カフカは後世の作家に多大なる影響を及ぼした偉大な作家である一方、ネガティブを代表する作家でもあるという。そして先生は言う。

カフカほど絶望できる人は、まずいないのではないかと思います。カフカは絶望の名人なのです。誰よりも落ち込み、誰よりも弱音を吐き、誰よりも前に進もうとしません。

この本は、そんなカフカが残したあらゆる絶望の言葉を集めたものである。ものすごく共感できるものから、さすがの私も「いやそれは卑屈すぎるだろ」と思うものまで、読み応えがあった。そして不思議なことに、読み終わる頃には彼のあまりの絶望っぷりに逆に笑えてくるのであった。以下、特に共感した彼の絶望の言葉を共有()できたらと思う。

頑張りたくても頑張ることができない

頑張れる人は、これを気合不足だの甘えだの言うのだろう。しかしどんなに頭で思っていても身体が付いてこないことは往々にしてあるのだと思う。みんなそれぞれ頑張りたいことをその通り頑張れるのなら、この世はもっと生きやすく、またずっとずっとよいものであるはず。

他の人はやすやすとやってのけることを、自分はできない

これ。もうThat's it!って感じ。いくら他人を気にせず生きようっていったってそんなの無理。私は他人への対抗心が人一倍強いという面がある。そのおかげで、勉強など頑張れたことはある。でも同時に、自分がどう足掻いても敵わないと悟った途端絶望してしまう。変なの。そんな中途半端な対抗心なんて棄ててしまえって思うよね。私もそう思う。でもできないんだなこれが。

手にした勝利を活用できない

本文にもそっくり例として書かれているのだが、まさに私は、志望大学に合格した途端気力を失ってしまった。バーンアウトしたのである。(大学合格を勝利というと多方面からご指摘を頂きそうだが本文にも書いてあるから良いよね)勝ってからも悩むなんて。人生ってなんでこんなに難しいのだろう。手放しで勝利を喜ばせてくれよ。勝利による果実を素直に享受させてくれよ。。。

 

死なないために生きるむなしさ

これを読んだとき、頷きが止まらなかった。

正直私の人格形成にも大きく影響していると思うのだが、私は母との関係がよろしくない。物心ついたころから母は恐怖の対象でしかなかった。母を憎んでいた。それでもここまで育ててくれたことへの感謝はしているから、あまりこの言葉は使いたくないのだけど、「虐待」に該当するようなことを散々されてきた。1何年も人格を否定され続けた。そんなとき、死にたいと何度も思った。○ね、とそれを直接言葉にされたこともある。あっそうじゃあ死んでやるよ!……思うだけだった。死ねなかった。生きるしかなかった。死ねなかったのはなぜか?一番には怖かったから。加えて、こんな私をも好いてくれている人たちの存在もあれば、病気や貧困、紛争など今日一日生きられるかどうかさえ分からない状況で生きている人々への罪悪感の存在もある。とにかく、いろいろ考えたら死ねなかった。怒り狂った母に包丁を向けられたことがあるが、そのときいっそのこと殺してくれれば良かったのにとさえ思った。自分の意志で死ぬより、そっちのほうが色々とマシだと思っていた。別にこれからの人生に希望があるわけでも今後状況が良くなる補償があるわけでもないけれど、死ねないから生きるしかない………このやるせなさは私の人生の大半につきまとっていた。私が長年悩んできた、死にたいけど死ねない苦しさを端的に表した「死なないために生きるむなしさ」という言葉にこの本で出会ったとき、心の靄がわずかに晴れた気がした。カフカも、自殺したいという願望を払いのけることに人生を費やしていたなんて…。カフカは私の悩みを言語化してくれた。

なんだか重くなってしまったけれど。進学を機に母の元を離れてだいぶ傷が癒え、今は別に憎んでもいないし、自分の人間的な欠陥のすべてを母のせいにしているわけでも、過去のことを掘り返して復讐を企んでいるわけでもない。ましてや、これを書くことで同情して欲しいとかも一切思っていない(なんなら同情されるのが嫌でこれまでどんなに仲がいい友人にも私と母との関係は隠してきた)。母だけが100%悪いのではない。できることなら、これからの人生をかけて母娘関係を改善したいと思っている。母との関係は私の人生を貫く最大テーマでもあるので、今後また自身の整理のためにここに綴るかもしれない。

 

 

 

中途半端ですが、長くなりそうなのでいったんここで切ります。まだ共有したい彼の絶望がたくさんあるので、またいつか。

なんだか鬱々とした文でごめんなさい。前回も誰得?って書いたけれど、今回の方が需要ないね。まあこれで前回の拙い裁判傍聴記が相対的に有益になったからいいか(謎理論)。

こんな鬱蒼とした文章にお付き合いいただきありがとうございました。

 

 

初めて裁判を傍聴したお話

はじめまして。

今日は私の初裁判傍聴・ブログ初投稿の記念日であります。傍聴の記録は自分の中にとどめておくつもりでした。はじめは。誰得?わかりません。しかし自分のためだけなら後回しにしてしまうので、記憶の褪せないうちに人様に見ていただくつもりで書いてみます。読んでやるよ!という心優しい方がいらっしゃいましたらお付き合いください。

きっかけ

私は現在、来年のとある採用試験に向け予備校に通っています。授業内で講師が仰った言葉がきっかけとなりました。

「一度は裁判を傍聴するのも良いと思います」

前々から興味はありました。裁判に対してもだけど、人間の暗黒面や狂人の心理についても。しかし授業やバイトに追われ気づけば大学3年生。半ば焦りのようなものも感じていました。私の性質上、気になっていることをそのままにしておくのは許せません(2年弱放っておいた奴が言うな)。もう今しかない、大急ぎで裁判所のHPを見に行きました。

www.courts.go.jp

無知すぎた

裁判って、予定まで公開されているわけじゃないんですよね。開廷期日が知らされているのは裁判員裁判だけ。知りませんでした。その日に行われる裁判は当日裁判所に行ってみないと分からないとのこと。一か八かでいきなり行ってみるか、それとも予定の分かっている裁判員裁判に行くか…。今回は裁判の雰囲気をつかむため、刑事事件であれば何でも良いと思っていたのですが、傍聴ビギナーには難しい判断でした。

入念な予習

私は石橋を叩きすぎて割っちゃうレベルの心配性なので、初めての傍聴に臨むにあたり入念に準備をしました。傍聴体験ブログもたくさん読んだし、まさに傍聴がテーマのドラマも…。『傍聴マニア09 裁判長!ここは懲役4年でどうすか』課題そっちのけでAmazonプライムで全話イッキ観。

www.ytv.co.jp

そして肝心の傍聴する裁判の種類は、こちらのブログを参考に「裁判員裁判の判決」に決めました。審理も観たかったのですが、日程の都合であいにく判決だけ。

kame-reon.hatenablog.com

いざ傍聴

やっとここからが実際に傍聴したお話。傍聴人入り口から法廷に入ると、いまにも張り裂けそうな空気に包まれました。警察官に挟まれて入ってくる手錠をつけた被告。そのとき気づきましたが、人生で初めて手錠をつけられた人を生で見ました。なんだかなんとも言えない感情。しばらくすると、裁判員と裁判官が入ってきて開廷しました。傍聴人は20人ほど。大半は首からいわゆる社員証のようなものをつけた人たちで(仕事の一環?研修?)、残りは中年男性がちらほら(独断と偏見で言うなら玄人っぽい)。

「主文。被告を……処す。」

ついに!今回はこれが聞きたかったと言っても過言ではない、判決の宣告。(いや、野次馬根性とかでは決してないですよ?)今回傍聴したのは、強盗致死傷の被告を裁くものでありました。プライバシー保護のため具体的な判決を言うのは避けますが、判決が下されたとき真っ先に思ったのは予想より長い、ということでした。しかし、のちに裁判長がその判決に至った理由を述べたとき納得することになります。

先入観や固定観念、人を裁くということ

開廷し裁判長の前に座る被告は、異様に小さく弱々しく見えました。背を丸め、うなだれ、さぞ反省しているのだろうと思いました。だから判決が言い渡されたとき同情さえ覚えたのです。第1回の審理から傍聴していれば違う感情を抱いたかも知れません。一般人も事件の概要を知りうるような、テレビで報道されるような大事件でもなく、判決を聞いただけの赤の他人が抱く感情にすぎません。しかし、この事件の概要や判決理由を聞き、被告に対する自分の心証が180°変わったことに自分でも驚きました。裁判長曰く、被告は初犯ではなく複数回に渡り服役を重ねているとのこと。「なんだ、反省していないじゃん」「フツーに悪人じゃん」と安易に思ってしまった自分がいました。知らず知らずのうちにバイアスをかけて物事を見ているんだなあと。普段から見出しに挙げたようなものを持たないよう意識しているつもりですが、まだまだ未熟です。いやしかし、そういうものをすべて取っ払って人を裁く裁判官ってすごくないですか?でも冤罪という許されない問題も実際にあるわけで。難しいですね…。

裁判を傍聴するということ

たった一回の傍聴、それも判決部分しか見ていない人間がこれを語るのはおこがましい気もするのですが。傍聴ビギナーのフレッシュな感想()として残しておきます。これから傍聴経験を重ねたとき、今と比べて自分が何を思うか気になるので。

傍聴席から被告人の背中を見ていて、とても不思議な感じを覚えました。私は何を誰を見ているんだろう、この人は(傍聴席に居る人すべてが他人でじゃありませんが)20人近くの他人が自分が判決を言い渡される場面に立ち会っていることをどう思っているのだろう…。私は事件と何の関係もなく被告は赤の他人です。そんな赤の他人が判決を受けるという、その人の人生の一部に「自分の意志で」立ち会っている…。法廷を後にしてからもなんだかモヤモヤしていました。そういえば、先に述べた『傍聴マニア09(略)』でも、傍聴にハマった主人公が我に返り、無責任な立場から他人の人生を覗き見る「裁判傍聴」に懐疑的になるシーンがあります。良いとか悪いとかそういったレベルではなく、経験を重ねれば自分なりの意義を見いだせるのでしょうか。見いだせなかったとしたらそこで身を引けば良いだけのことですが…。

これから

そんなわけでもやもやしながら初めての傍聴を終えたわけですが、これで良かったと思っています。行かなきゃ分かりませんから。ほんのわずかな経験ですが、考えるべき課題をたくさんもらいました。大学と就活に追われる中どれだけ時間を捻出できるか分かりませんが、今後また傍聴しに行きたいと思っています。願わくば、1つの事件を第1回審理から判決まですべて見れますように。

 

最後まで読んでくださりありがとうございました。