mの掃き溜め

とくにテーマを定めず誰得なことをつらつら書いていくまでです。

“死なないために生きるむなしさ”

私はこういう人間

私は悲観的な人間である。これまでの人生において「ただただ物事を憂う」ことに費やした時間の多いこと多いこと。特に2年前に大学に合格してからの半年間は、これまでの21年間で精神状態的にどん底だったと言える。浪人してまで入りたかった今の大学に合格したのに、だ。あのときはさまざまな要因が複雑に絡み合って悶々としていて、それを語れと言われたら1日かかるので詳細は割愛する。とりあえず、どんなに嬉しいことがあろうが、悲観に値することが起きようが、関係なく私は何かしらを憂えている。そういうタイプの人間なんだと思う。

そして同時に無気力な人間でもある。人生のとある地点でやる気というものをどこかに置いてきたみたい。趣味は何?休日は何してるの?っていう質問が苦手。だって趣味なんぞ何もないし休日も答えられるようなことしていないから。エネルギッシュな人に出会うとまぶしくて目がくらんでしまう。特に人のために精力的に活動している人を見ると。どこにそんな気力があるの?と思う。私は自分のために、自分のためだけに生きることで必死なのに。自分の中の葛藤に打ち勝つために日々精神を削っていて、他人の利になるようなことをする余裕なんて無いのに。大学に入り、いわゆる「意識高い人」(意識高い系ではなく、真に意識の高い人、ね)にたくさん出会い、尊敬する傍らで自分の無力さに嫌気がさしていた。いや、彼らを指を咥えて見ているだけの自分が、自分自身に嫌悪感を覚えることすら烏滸がましいと思っていた。

 

正直、これからの人生を考えたときに明るい展望なんて描けない。希望:絶望だったら1:9くらい。ただここでドロップアウトするわけにはいかないので、惰性で日々生きて、今はプラスアルファで就職のために勉強しているだけである。

あのカフカが?

そんなとき、人生で初めて最初から最後まで共感しっぱなしの本に出会った。フランツ・カフカ『絶望名人カフカの人生論』(頭木弘樹編訳)。人生で初めてパケ買いした本でもある。前述したような人間である私が、タイトルに惹かれないわけがない。

www.shinchosha.co.jp

フランツ・カフカと言えば、かの有名な『変身』を一番に思い浮かべる人が多いのではないだろうか。人間存在の不条理を主題とするシュルレアリスム風の作品群を残した、現代実存主義文学の先駆者である。頭木先生によれば、カフカは後世の作家に多大なる影響を及ぼした偉大な作家である一方、ネガティブを代表する作家でもあるという。そして先生は言う。

カフカほど絶望できる人は、まずいないのではないかと思います。カフカは絶望の名人なのです。誰よりも落ち込み、誰よりも弱音を吐き、誰よりも前に進もうとしません。

この本は、そんなカフカが残したあらゆる絶望の言葉を集めたものである。ものすごく共感できるものから、さすがの私も「いやそれは卑屈すぎるだろ」と思うものまで、読み応えがあった。そして不思議なことに、読み終わる頃には彼のあまりの絶望っぷりに逆に笑えてくるのであった。以下、特に共感した彼の絶望の言葉を共有()できたらと思う。

頑張りたくても頑張ることができない

頑張れる人は、これを気合不足だの甘えだの言うのだろう。しかしどんなに頭で思っていても身体が付いてこないことは往々にしてあるのだと思う。みんなそれぞれ頑張りたいことをその通り頑張れるのなら、この世はもっと生きやすく、またずっとずっとよいものであるはず。

他の人はやすやすとやってのけることを、自分はできない

これ。もうThat's it!って感じ。いくら他人を気にせず生きようっていったってそんなの無理。私は他人への対抗心が人一倍強いという面がある。そのおかげで、勉強など頑張れたことはある。でも同時に、自分がどう足掻いても敵わないと悟った途端絶望してしまう。変なの。そんな中途半端な対抗心なんて棄ててしまえって思うよね。私もそう思う。でもできないんだなこれが。

手にした勝利を活用できない

本文にもそっくり例として書かれているのだが、まさに私は、志望大学に合格した途端気力を失ってしまった。バーンアウトしたのである。(大学合格を勝利というと多方面からご指摘を頂きそうだが本文にも書いてあるから良いよね)勝ってからも悩むなんて。人生ってなんでこんなに難しいのだろう。手放しで勝利を喜ばせてくれよ。勝利による果実を素直に享受させてくれよ。。。

 

死なないために生きるむなしさ

これを読んだとき、頷きが止まらなかった。

正直私の人格形成にも大きく影響していると思うのだが、私は母との関係がよろしくない。物心ついたころから母は恐怖の対象でしかなかった。母を憎んでいた。それでもここまで育ててくれたことへの感謝はしているから、あまりこの言葉は使いたくないのだけど、「虐待」に該当するようなことを散々されてきた。1何年も人格を否定され続けた。そんなとき、死にたいと何度も思った。○ね、とそれを直接言葉にされたこともある。あっそうじゃあ死んでやるよ!……思うだけだった。死ねなかった。生きるしかなかった。死ねなかったのはなぜか?一番には怖かったから。加えて、こんな私をも好いてくれている人たちの存在もあれば、病気や貧困、紛争など今日一日生きられるかどうかさえ分からない状況で生きている人々への罪悪感の存在もある。とにかく、いろいろ考えたら死ねなかった。怒り狂った母に包丁を向けられたことがあるが、そのときいっそのこと殺してくれれば良かったのにとさえ思った。自分の意志で死ぬより、そっちのほうが色々とマシだと思っていた。別にこれからの人生に希望があるわけでも今後状況が良くなる補償があるわけでもないけれど、死ねないから生きるしかない………このやるせなさは私の人生の大半につきまとっていた。私が長年悩んできた、死にたいけど死ねない苦しさを端的に表した「死なないために生きるむなしさ」という言葉にこの本で出会ったとき、心の靄がわずかに晴れた気がした。カフカも、自殺したいという願望を払いのけることに人生を費やしていたなんて…。カフカは私の悩みを言語化してくれた。

なんだか重くなってしまったけれど。進学を機に母の元を離れてだいぶ傷が癒え、今は別に憎んでもいないし、自分の人間的な欠陥のすべてを母のせいにしているわけでも、過去のことを掘り返して復讐を企んでいるわけでもない。ましてや、これを書くことで同情して欲しいとかも一切思っていない(なんなら同情されるのが嫌でこれまでどんなに仲がいい友人にも私と母との関係は隠してきた)。母だけが100%悪いのではない。できることなら、これからの人生をかけて母娘関係を改善したいと思っている。母との関係は私の人生を貫く最大テーマでもあるので、今後また自身の整理のためにここに綴るかもしれない。

 

 

 

中途半端ですが、長くなりそうなのでいったんここで切ります。まだ共有したい彼の絶望がたくさんあるので、またいつか。

なんだか鬱々とした文でごめんなさい。前回も誰得?って書いたけれど、今回の方が需要ないね。まあこれで前回の拙い裁判傍聴記が相対的に有益になったからいいか(謎理論)。

こんな鬱蒼とした文章にお付き合いいただきありがとうございました。